かけ離れたものが近づく、結びつく、つながる、

例えば、

「月の思い出話のような雨」

月   思い出話   雨

かけ離れたものであればあるほど、
近づいて結びついてつながったときに感じる「…!」は大きい、
この「…!」を感じる正体こそがたぶんいわゆる「想像力」で、

かけ離れたものを近づける、結ぶ、つなげる、
それはつまりきっと差異を超えることだ、

日々の日常あらゆることが実はあらゆる差異に満ちている、
少女と少年の差異、熱さと冷たさの差異、昼と夜の差異、昨日と今日の差異、動物と石の差異、動物と人間の差異、死と生の差異、
そして、
あなたとわたしの差異、
これらの差異が差異でなくなってしまうと、
例えば動物と人間には違いなどないと本気でそれを行動の元に据えたりしたら日々の日常は送れなくなるだろう、
でも、「動物と人間は同じ」、これを感じることのできている心の中はとても穏やかで優しく、その自分の心の状態をとても好きに思え、
逝ってしまった身近な命、でも死んだのではなく、というより死も生も究極的に違いはない、その感覚を得られることがどれだけ大事なことか、
「あなた」と「わたし」の間に厳然として横たわる差異、
もしもその差異を超えることができたら…

普通「月」は「思い出話」を語らない、
「月」と「思い出話」の間にはだから超えようのない差異がある、
その、
普通は「思い出話」など語ろうにも語るはずのない「月」が、
「思い出話」を語りはじめる、
のを思い浮かべる、
言い換えれば、
想像する
それは、「月」と「思い出話」の間の差異が消えていく瞬間、
しかも、ちょうど外で降りはじめた「雨」は、
思い浮かべたばかりの、
「月」が「思い出話」を語っているその「思い出話」のような、
「雨」…

さらにこの場合、
「月」と「思い出話」と「雨」を、
何を用いてつなげるのか、
その手段も、
「月」とも「思い出話」とも「雨」とも、
できるだけかけ離れたほうがたぶんより「…!」は大きい、
つまり、
思い出話を語っている月の動画やアニメをつくって見せたり、
雨が降っている音を録音して聞かせたりするのではなく、
単に、

「月の思い出話のような雨」

これをただ声と言葉だけで聴いた人の中に降る雨はどんな雨だろうか、

「月の思い出話のような雨」は、

どんな声でどう語ったときに降りはじめるのだろうか…


「声と言葉と想像力」について / 物語屋